2008/03/31

チョイワル

小さい頃大人は怖かったし、かっこいいと思っていた。
自分も大人になったらこういう風になろうとか、こういうモノを持とうとか。そういった漠然とした憧れのようなものを、大人に持っていたものだ。

例えば、開くときに高音のすごくいい音がするライターで、シュボっとタバコに火をつける仕草とか。
ピカピカに光っている万年筆で、サラサラっと何かを書いていたり。
触るとえらく怒られたもんだ。

多かれ少なかれ、周りの大人はそういうのが多かったと思う。
そういう大人に対して、何か畏怖のような気持ちを抱いていたもんである。子どもが踏み込んではいけない大人の一線みたいなもんがあって、そこから先は大人だけの世界。子どもとの接点はないし、入り込む余地もない、みたいな。大人はあくまで大人として子どもと接していた気がする。

ところが昨今、どんなもんかと、ふと思いを巡らせて見るに、大人の威厳というか、大人の世界というか、そういうのが希薄に思えるのだ。僕が大人に(というか、成人しただけか)なったからというのも少しはあるかも知らんが、大人の大人たる何かが昔ほど見られない気がする。大人が子ども側にシフトしているというか。

そうなったときに何が起きるかというと、子どもが大人をナメ始めるのだ。大人に対する畏怖の念とか尊敬とかが欠けているから、大人を何とも思わない。傍若無人な子どもが多いのはそのためだ、と思っている(もちろん他にもあるだろうが)。これは大人の自業自得でもあるわけだ。

そこで、王政復古だか父性の復権なのか何だか知らないが、チョイワルとかいうアホみたいなコンセプトが流行り出した。チョイワル。要するに中途半端に悪ぶることか。少々余った小金でもって、判を押したようなサングラスに胸元の開いたシャツ、先のとがった靴に、blablabla...ってやつか?

多分ソレが出てきた背景にはこういうのがあるんじゃないかと睨んでいる。大人が昔ほどかっこよくなくなったから、とりあえず形だけでもそれっぽくしようよ、みたいな。

しかし結局中身がアレなので、がっかりなことが多いわけだが。そういうのは、何と言うか大人の「アソビ」の部分からかもし出されるものだから。別にカネをかける必要のないものにこだわって、金をうんとかけてみたり、一見くだらなそうな事を一生懸命やってみたり。

そういうのが何というか、深みのようなものになって、人間的な魅力を醸造し、それが畏怖とか得体の知れない良く分からん尊敬とか憧れとか、そういうのに繋がるのだろう。チョイワルにそれはあるか?ない。

娘ひとり、それから今度息子が生まれる僕としては、子ども達にちゃんと憧れられる存在になろうと思う。

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